人生の《処方箋的》映画考

この「ままならない人生」を歩むとき、一つの映画がそっと、背中を押してくれる時もあれば、優しく寄り添ってくれるときもあります。 心を癒し、また、鼓舞してくれる映画を中心に、感想を綴っています。

「グレイ・ガーデンズ」

 

  作品情報 

 

原題   Grey Gardens

監督   マイケル・サシー

脚本   マイケル・サシー

出演   ドリュー・バリモア

     ジェシカ・ラング

     ダニエル・ボールドウィン

     ジーン・トリプルホーン

公開   2009年HBO作成テレビ映画

時間   104分

制作   アメリ

 

  あらすじ 

 

かつてはイーストハンプトンでつまらない常識に反抗しながら、社交界の一員として豪華で贅沢な暮らしを楽しんでいた「ビッグ・エディ」と「リトル・エディ」ブビエ・ビール。マイゼル兄弟の1975年のドキュメンタリーのインスピレーションとなった彼女たちに基づいたこの映画は、グレイ・ガーデンと呼ばれる家で、エキセントリックかつ相互に依存しあう二人の人生が零落していく様子を描く。                                アマゾンプライムより

 

    感想   

 

共依存

 

そんな言葉が浮かんでくる、切なくも愛しい、そして、やるせない気分になるが、

どこか清々しい、そんな母子、二人のエディを描いた作品。

 

1975年のドキュメンタリーは未見だが、ちらっと観た映像の二人とそっくりに、

老けたメイクと表情、動きで、ドリュー・バリモア

ジェシカ・ラングが演じきっており、本当に素晴らしい。

 

特にドリュー・バリモアは、若く美しい、社交界の花形だった時代から、

髪がだんだん抜け落ち、人格まで変わってしまったような、

変わり果てていくリトル・エディを演じており、脱帽の一言。

 

かつては栄華を誇った、上流階級の人々であった筈の二人が、

どんどんと落ちぶれて、やがてはゴミ屋敷と化す「グレイ・ガーデンズ」に

沢山の猫やアライグマと住み続ける様を描いている。

 

貴族の没落を描いた太宰治の「斜陽」をちょっと思い出させる。

 

もともとは、ケネディ大統領の妻である、

ジャクリーンの叔母という立場で、社交界で輝いていた母、ビッグ・エディ。

リトル・エディはジャクリーンのいとこにあたる。

 

ビッグ・エディはショービズの世界に憧れていたが、夢叶わず、

日々、パーティを開き、メイドも必要以上に雇い、

お抱えのピアニスト付きで歌い踊る日々。

 

弁護士の夫の収入を食いつぶすように、湯水のごとくお金を使っていたが、

とうとう、夫に愛想をつかされ、捨てられてしまう。

 

弟たち二人は寄宿舎へ入れられ、

リトル・エディは父と共にニューヨークへと旅立つ。

 

金の切れ目が縁の切れ目とは良く言ったもので、

浮気相手であったピアニストも出て行ってしまう。

 

独り暮らしとなり、だんだん荒れ果てていく、「グレイ・ガーデンズ」。

 

しかし、母の影響で女優を目指し、都会で頑張るリトル・エディを、

一人ぼっちになってしまった母は、グレイ・ガーデンズに連れ戻す。

 

リトル・エディは、そのまま朽ち果てていく「グレイ・ガーデンズ」と、

母と共に、若く美しい時を終えていく。

 

 

母と娘がまるで姉妹のように仲良く、ショッピングをしたり、

遊びに出かけたり、服を共有したりと、

仲の良い親子はこの日本でも、今の時代沢山いることだろう。

 

しかし、気づかずうちに「共依存」的な関係に発展しているとしたら、

それは、ちょっと、いただけない。

 

共依存」とは、ある特定の人と過剰に依存しあい、囚われている関係。

相手の事を思いやっているようで、それぞれが実は自分のことしか愛していない。

 

母エディは、不倫関係に走った娘をニューヨークから無理やり連れ戻す。

心配しているつもりなのだろうが、自分の寂しさからそうしたことが透けて見える。

 

本当に、娘の事を思えば、言葉をかけ、見守り、傷ついたときには、

いつでも手を差し伸べ、社会の荒波へ船を漕ぎだす娘の成長を願うだろう。

 

あなたの為、と言いながら、自分の思い通りに子供を利用するのは、

母自身も自立できていない証拠なのだ。

 

娘のエディも、出ていこうと思えばいつでもグレイ・ガーデンズから出ていけた。

 

しかし、そうしなかったのは、母には自分しかいない、という思いからなのか、

そう考えることもできないほど、寂れていく我が家で思考が停止してしまったのか。

 

いつも母に大きな声で「エディ!」と呼ばれ、母に付き従う。

 

 

悪臭から、近所の人に通報されるほどのゴミ屋敷で、前夫からの僅かな仕送りを

頼りに生きる二人だが、不思議なことになぜか悲壮感はない。

 

ゴミだらけの部屋に映る彼女たちは、あまりにもファッショナブルなのだ。

 

その、ちぐはぐさ、エキセントリックさに、圧倒される。

 

寝たきりとなった母はベッドの上で、今は全く必要のない大きな帽子をかぶり、

皆が注目してくれた華やかだった頃にパーティーで披露した歌を歌い、

 

娘は、すっかり抜け落ちてしまった髪を隠すために、頭にとっかえひっかえ

様々なアイテムを使い、ターバンを巻く。

 

それはスカーフだったり、セーターだったり、パンツだったり。

 

ワンポイントに、大きなブローチ。

頭のてっぺんに留めたり、サイドでセーターをまとめたり。

ショートパンツの上にストッキングをはき、その上に、

カーディガンを巻いてスカート風にしたて、大きめのピンで止める。

 

空き缶が山と積み上がり、そこかしこに猫のフンが転がる中、

きちんとブーツを履き、ミンクのコートを羽織っている。

 

料理をしたり、掃除をしたり、生きるための生活を整えることに

エネルギーを全く注がないのに、

ファッションには全力でエネルギーを注ぐ。

 

「毎日工夫してるの」と、リトル・エディは言う。

 

その、滑稽な暮らしぶりは、常人には多分理解できない。

 

現代でいうなら、セルフネグレスト状態。

自分の世話ができない。

普通なら、我慢ならないと思われる環境に

自ら追い込んでいることにも気づいていないのだ。

 

しかし、考えてみれば、生まれた時からメイドが何でもしてくれる環境で、

生活するということを全く教えられずに育ってしまったら、

さもありなん、とも思えなくもない。

 

もしも前夫が大金持ちで、いくら使っても文句も言われず、

浪費しながら芸術とファッションだけを愛し、生活してくことができたとしたら、

二人は、いつまでも美しく輝き続けたことだろう。

 

今現在でも、ファッション業界でのリトル・エディは、ファッションアイコンとして、

カルト的人気を誇っているとか。

 

無難な生活を続けていたら、ファッションアイコンとして世間に知られることもなく、

注目されることもなかったであろう。

 

皮肉なことに、このゴミ屋敷と彼女たちの佇まいがあまりにも奇天烈で、

その強烈なインパクトによってショービズの世界に躍り出ることができたふたり。

 

こんな人生もあるのか、と、ある意味突き抜けた二人に、

賞賛の拍手を送らずにはいられない。

 

こちらは本物の二人。

 

アマゾンプライムで観る